梅田屋の創業は昭和20年(1945年)。昨年、創業75周年の節目を迎えた。今池駅から徒歩1分という好立地にそびえ立つ。初代オモニの時代から続く、八丁味噌ベースのタレが利いた鉄板焼肉、ホルモン鍋。梅田屋の「顔」と言っても良い。
オモニがお店を継いだのは1998年。この期間、在日同胞のみならず、数々の日本人のお腹を満たしてきた。著名人や有名アスリートもこの味を知る。
創業75周年を迎えた梅田屋の人情について、編集部が取材した。
初代オモニが残してくれた財産
戦後まもなく、今池の地で、梅田屋は産声を上げた。創業者は南栄淑氏の両親。在日同胞1世だ。アボジが他の仕事で多忙だったため、お店を主として切り盛りしていたのは、初代オモニであった。
店は連日賑わいをみせた。それはそうだ。あそこには、伝統の味があるから。鉄板焼肉とホルモンは、同胞のみならず、日本のお客にも好評だった。
南氏はそんな梅田屋を、そして店主であるオモニを、幼き頃からよく見ていた。オモニを「根性のオモニ」と振り返る南氏。どんなに多忙だろうと、どんなに辛かろうと、弱音は一切聞いたことがない。オモニはよく「塩を舐めても、白米を食べたような顔をしろ」、「自分の1円を尊く扱え」と言い聞かせた。今でも心に響く。そんなオモニを「隠れた英雄」とも記憶している。
総連の活動家や朝鮮学校の先生からは、食事代を請求することはなかった。また、日本人のお客にお願いして、在日朝鮮人の権利獲得のための署名を集めた。オモニにはオモニなりのやり方があったのだと、感じたらしい。先述のとおり、日本人のお客も大切にした。そもそもオモニには、日本人や朝鮮人との境界線はなかったのだ。
『人間はみな平等』
『朝鮮人も日本人も良い人もいれば悪い人もいる、日本の人と敵対するべきではない』
こんなエピソードがある。むかし、名古屋工業大学のある学生が、空腹を満たすために、よく梅田屋を訪れた。苦学生であったため、ほんの少し注文しては、間もなく帰路につく。そんな学生を横目に、オモニは、他のお客が飲み残した瓶ビールを、少量ずつ蓄えては冷蔵庫に保管し、学生が来店するたびに、無償で差し上げたそうだ。学生はその後、大手フィルムメーカーに勤め、成長した姿で梅田屋を訪れた。「若者を大切にする人情の人」とオモニに感謝した。
オモニは、梅田屋の常連客や、そこでアルバイトをしていた若者から手紙を何枚ももらったそうだ。今でも自宅に大切に保管されている。南氏はそれらをひとつに、記念文集をつくる計画だったが、結局果たせずじまい。当時常連のひとりであったT氏は、自身を貧乏学生としながら、「梅田屋のオモニ」という題で、手紙を届けた。そこに書かれたあるフレーズに目が離せなくなった。
『オモニ、そして梅田屋の存在は、すでに失ってしまった「日本の心のふるさと」、「母」そのものであると僕はいつも思っている』
オモニが脳梗塞で入院をしたのは70歳を過ぎた頃。「自分の代で終わりにしよう」と決めていたとのこと。辛い経験をさせたくなかったのかもしれない。南氏自身も躊躇する面もあった。だが、2代目オモニとして梅田屋を継ぐよう、背中を押してくれたのは、夫である鄭大基氏だった。
そして1998年、初代オモニの「人情」を継承すべく、2代目オモニとして南氏は立ち上がった。
2代目オモニはバリバリの活動家
家族を支えながら、2代目オモニ(以下オモニ)は、初代から続く伝統の味と、教えを忠実に守ってきた。朝鮮人も日本人も平等に接した。著書<在日二世の記録>では、日本の子供たちとの交流について記されている。オモニは、「今池子ども会」という組織を立ち上げ、一緒に遠足に出掛け、冬にはクリスマス会を開き、日常ではボランティア活動を通して教育し、精一杯の人情で子どもたちと接したそうだ。純粋に子どもが好きだった。日本の子どもであっても変わらない。
(この子たちが大人になったとき、ああ近所に朝鮮のお姉さんがいたなって思い出したら、きっとそれは悪いイメージではないだろうな・・・)オモニは、そう感じた。
お店を切り盛りする傍らで、オモニは名中支部女性同盟委員長として、長年務めてきた。地域同胞社会のために、知恵を捧げた。地域に住む若い母たちとの交流も欠かさない。朝鮮学校の支援活動にも誰よりも意欲的に取り組んだ。
名古屋朝鮮初級学校に通う園児学生たちへよくプレゼントを渡し、喜ばれた。プレゼントされたもののひとつ、「チウゲ(消しゴム)」は、成人した今でも手に持っているそうだ。今年3月に愛知朝高を卒業した学生たちも、「チウゲ」をよく記憶する。園児学生たちの「チウゲ、コマッスンミダ!」という挨拶が何よりも嬉しかった、オモニはそう語る。
朝鮮高校サッカー部が全国大会予選で勝ち上がれば、梅田屋で激励会を開き、選手たちを鼓舞した。その発展上の企画として、最近「梅田屋カップ」が生まれた。元Jリーガーの安英学選手を招いた、朝鮮高校を卒業する学生たちのためのサッカー大会だ。余談ではあるが、安英学選手もオモニにお世話になったアスリートのひとりである。
オモニは、バリバリの活動家である。その集大成は、自身が発起人となり開催した、朝鮮学校チャリティーコンサート「ウリエノレ」。今まで計3回開催した。地域に住む老若男女、活動家や経済人、すべてを網羅した大イベントだ。
この大規模のイベント、発端は2002年「拉致問題」だったという。直後、在日同胞社会では、朝鮮民族を匂わせる雰囲気を敬遠するような空気が流れていた。当時のある若者がオモニに相談したらしい。「オモニ、何ですか。この雰囲気は。最近全く、ウリノレ(私たちの歌)を聞かなくなったじゃないですか。私たちが悪いことをしましたか。」
その彼、朝高時代は相当なワルだったそう。しかし、民族の誇りは忘れたことはない。聞く話によれば、車の中は、いつも共和国が誇る「ウリノレ」がガンガン流れていたそう。オモニもこの言葉に「ハッ」となったそうだ。
記念すべき第1回目は歌劇団を招き、「ウリノレ」一色に染まった公演にした。2016年には第3回目を迎えた。千葉県の朝鮮学校に通う学生がとても歌が上手いと聞いた。オモニは、彼をあたたかく招待し、スペシャルゲストとして出演させることに成功。会場には割れんばかりの大拍手が溢れ、感動の涙を誘ったのは言うまでもない。
その夜、出演者、関係者、全員梅田屋に揃った。述べ100名以上。貸切となった梅田屋は歓喜のウリエノレが留まることを知らなかった。「在日朝鮮人として生きてきて、本当によかったと実感した」と皆は口を揃えた。
サンキュー!サンキュー!オモニ!!
藤田保健衛生大サッカー部は、医学部のサッカー大会(西日本医科学生総合体育大会)で決勝戦に進出した。ヨンチョルが大学6年のときである。ヨンチョルとは、オモニの息子である。医者として病院に勤務し、青商会活動に熱心に励む。3児の父であり、2021年4月に長女が朝鮮学校に入学する。
立派に育ったヨンチョル、朝鮮高校時代は「サッカー馬鹿」だった。全国高校サッカー大会愛知県予選ではベスト4を経験した。オモニは「小学校の頃は優秀だったけど、中高時代は全く勉強しなかった」と振り返る。だが、それほど心配はしていなかったそう。男はスポーツをやってなんぼ、オモニはそう考えていたからだ。
ヨンチョルは高校を卒業後、浪人生活を経て、藤田保健衛生大学へ進学し、サッカー部にも入部した。初めて経験する日本人とのサッカー。不安はあったらしい。しかし一瞬で吹き飛ぶ。オモニの商売理念に影響を受けていた証かもしれない。当時51名在籍していたサッカー部。ヨンチョルはレギュラーのポジションを確保した。
そして迎えた大会。チームは一丸となり、勝ち進んだ。その陰で、52番目の選手として、チームに貢献するスーパースターがいたのをご存じだろうか。オモニだ。大会期間は精神的支柱として、チームに帯同した。声が枯れるほど応援した。グルメ担当も務めた。試合後に選手らにキムチやチャンジャを振る舞った。「美味しい!美味しい!」と選手たちは頬張った。
食材がなくなるスピードは早いもの。オモニは、堺の肉屋まで走り、40人前の食材を購入。それを焼き、選手たちへ提供。決勝戦前夜のこと、オモニは大胆な行動に出る。次は鶴橋に向かった。そこで豚肉6キロを購入。ホテルの厨房で切って、チョジャンをつけて食べさせた。
藤田保健衛生大学サッカー部は、見事に優勝を成し遂げた。歓喜に溢れる選手たち。歓喜の抱擁を互いに交わす。束の間、応援団から叫び声が聞こえてきた。最初は、何を言っているのか全く分からなかったとオモニは振り返る。耳をすまし、ようやく理解できた。彼らの叫び声とは、
『サンキュー!サンキュー!オモニ!!サンキュー!サンキュー!オモニ!!』
オモニは選手たちに胴上げされ、歓喜の宙に舞った。
「彼らは将来ドクターになる。どの病院に行っても、大学時代のサッカー大会で、在日の鄭先輩とあのオモニもいたなーって思い出してくれると嬉しい」
オモニから愛知県青商会へ
新型コロナウィルスの影響で時短営業や休業を強いられ、75年の歴史を誇る梅田屋も、大変な時期だった。ただ、時代に沿ってやり方を変える必要性はあるし、生活様式が変わるのであれば、それに対応できるようにしなくてはいけないと悟った面もある。休業日は日曜日から平日に変更した。日曜日に気軽に訪れてほしいとの思いだ。
さて、最後にオモニから愛知県青商会へのメッセージを預かった。
『高齢化社会が急速に進む中、青商会活動に励む会員たちの役割は計り知れないほど大きいです。同胞社会の中で、力もあり影響力もあり経済力もある青商会は、全てを握っているといっても過言ではないと思います。
こんな厳しい情勢だからこそ、ウリハッキョのために、全力を果たしてほしいです。そして朝鮮人として生まれてきて、本当によかったと思えるような子を育てるため、青商会が何を出来るのか、常に考えて行動してほしいと思います。
新型コロナウィルスの影響で、今年予定していた「第4回ウリエノレ」は延期となりました。しかし、間違いなく近い未来に開催します。その時は、名中地域の青商会だけではなく、愛知県青商会が一体となり、「第4回ウリエノレ」のために協力してくれることを願います。』