コリアン食堂物語〜第1話「迷いはなくただ実直に」〜

『新型コロナウイルスの感染防止と、来場・市民の皆さんの健康と安全を確保することを最優先に考え、第 65回一宮七夕まつりは開催を中止とする』

衝撃が走った。

本来ならば、2020 年 7 月 16 日〜19 日までの 4日間、お祭りで賑わうはずだった。長年続いてきた伝統のお祭り。コロナの影響で中止せざるを得なくなり、市民は落胆しただろう。

尾張地域青商会もその渦中にいた。

彼らは一宮市を拠点に活動する。会員のほとんどが一宮市またはその近辺に在住する。愛着がある。そんな彼らにとっても、お祭り中止の知らせは、かなり響いた。

毎年、お祭り期間に屋台を出店し、特大ネギマを売る。4 日間でおよそ100万円の売上、40〜50万の利益を生む、一大財政イベントと呼んでも過言ではない。

尾張地域青商会。「財政事業のお手本」として、全国に名を馳せている。

尾張の財政事業の主軸は、「キムチ販売」と「一宮七夕まつり」にある。キムチを調達、販売、自主的に配達まで行い、毎月、約10万円ほどを確保する。

と言っても、祭りでの出店は、短期間で毎月のキムチ販売の利益より、何倍もの利益を生むため、相当な痛手となる。

また、「地域活性化」という観点からも、マイナスだ。仕込みから販売に至るまで、支部、女盟、そして会員たちの家族も含めて、「オール尾張」が絡むからだ。

さあ、どうする。

尾張地域青商会・高博史生活文化部長(以下:高氏)は動じなかった。

「失ったのであれば、また新しく創造すれば良い。財政活動というのは、特定の期間だけ行うものではない。常にやっていくものだと思う」

尾張青商会に一宮七夕まつりの話を持ち込んだのは、高氏である。「一宮七夕まつり」で得るはずだった財政の穴埋めをする。高氏は、その責任を全うすることを決意する。

現実は、そんな簡単なことではない、財政を確保することは。

尾張地域青商会はミーティングを繰り返し、知恵を絞りに絞った。が、一筋の光はまだ見えてこない。そんな刹那、一本の電話が鳴る。昔から親しく交流している日本の友人からだった。

「レゴランド前のメイカーズピア内で、出店の話がある」

高氏はピンと来た。「これだ!」

定例会の場で提案し、承諾を得て、実行が決まった。一宮七夕まつりでの出店に代わるもの、それがまさしく、「コリアン食堂」であった。新しいビジネスチャンスを、尾張自らの手でつくりあげた。

出店準備も大変だろう、限定開催期間も大変だろう。しかし、そんな心配よりも期待のほうが大きかった。

「ウリハッキョのために、子供たちのために、地域のために」

第2話はコチラからどうぞ。

「人情」が見守ってきた梅田屋75年の歴史

梅田屋の創業は昭和20年(1945年)。昨年、創業75周年の節目を迎えた。今池駅から徒歩1分という好立地にそびえ立つ。初代オモニの時代から続く、八丁味噌ベースのタレが利いた鉄板焼肉、ホルモン鍋。梅田屋の「顔」と言っても良い。

オモニがお店を継いだのは1998年。この期間、在日同胞のみならず、数々の日本人のお腹を満たしてきた。著名人や有名アスリートもこの味を知る。

創業75周年を迎えた梅田屋の人情について、編集部が取材した。

初代オモニが残してくれた財産

戦後まもなく、今池の地で、梅田屋は産声を上げた。創業者は南栄淑氏の両親。在日同胞1世だ。アボジが他の仕事で多忙だったため、お店を主として切り盛りしていたのは、初代オモニであった。

店は連日賑わいをみせた。それはそうだ。あそこには、伝統の味があるから。鉄板焼肉とホルモンは、同胞のみならず、日本のお客にも好評だった。

南氏はそんな梅田屋を、そして店主であるオモニを、幼き頃からよく見ていた。オモニを「根性のオモニ」と振り返る南氏。どんなに多忙だろうと、どんなに辛かろうと、弱音は一切聞いたことがない。オモニはよく「塩を舐めても、白米を食べたような顔をしろ」、「自分の1円を尊く扱え」と言い聞かせた。今でも心に響く。そんなオモニを「隠れた英雄」とも記憶している。

総連の活動家や朝鮮学校の先生からは、食事代を請求することはなかった。また、日本人のお客にお願いして、在日朝鮮人の権利獲得のための署名を集めた。オモニにはオモニなりのやり方があったのだと、感じたらしい。先述のとおり、日本人のお客も大切にした。そもそもオモニには、日本人や朝鮮人との境界線はなかったのだ。

『人間はみな平等』

『朝鮮人も日本人も良い人もいれば悪い人もいる、日本の人と敵対するべきではない』

こんなエピソードがある。むかし、名古屋工業大学のある学生が、空腹を満たすために、よく梅田屋を訪れた。苦学生であったため、ほんの少し注文しては、間もなく帰路につく。そんな学生を横目に、オモニは、他のお客が飲み残した瓶ビールを、少量ずつ蓄えては冷蔵庫に保管し、学生が来店するたびに、無償で差し上げたそうだ。学生はその後、大手フィルムメーカーに勤め、成長した姿で梅田屋を訪れた。「若者を大切にする人情の人」とオモニに感謝した。

オモニは、梅田屋の常連客や、そこでアルバイトをしていた若者から手紙を何枚ももらったそうだ。今でも自宅に大切に保管されている。南氏はそれらをひとつに、記念文集をつくる計画だったが、結局果たせずじまい。当時常連のひとりであったT氏は、自身を貧乏学生としながら、「梅田屋のオモニ」という題で、手紙を届けた。そこに書かれたあるフレーズに目が離せなくなった。

『オモニ、そして梅田屋の存在は、すでに失ってしまった「日本の心のふるさと」、「母」そのものであると僕はいつも思っている』

オモニが脳梗塞で入院をしたのは70歳を過ぎた頃。「自分の代で終わりにしよう」と決めていたとのこと。辛い経験をさせたくなかったのかもしれない。南氏自身も躊躇する面もあった。だが、2代目オモニとして梅田屋を継ぐよう、背中を押してくれたのは、夫である鄭大基氏だった。

そして1998年、初代オモニの「人情」を継承すべく、2代目オモニとして南氏は立ち上がった。

2代目オモニはバリバリの活動家

家族を支えながら、2代目オモニ(以下オモニ)は、初代から続く伝統の味と、教えを忠実に守ってきた。朝鮮人も日本人も平等に接した。著書<在日二世の記録>では、日本の子供たちとの交流について記されている。オモニは、「今池子ども会」という組織を立ち上げ、一緒に遠足に出掛け、冬にはクリスマス会を開き、日常ではボランティア活動を通して教育し、精一杯の人情で子どもたちと接したそうだ。純粋に子どもが好きだった。日本の子どもであっても変わらない。

(この子たちが大人になったとき、ああ近所に朝鮮のお姉さんがいたなって思い出したら、きっとそれは悪いイメージではないだろうな・・・)オモニは、そう感じた。

 お店を切り盛りする傍らで、オモニは名中支部女性同盟委員長として、長年務めてきた。地域同胞社会のために、知恵を捧げた。地域に住む若い母たちとの交流も欠かさない。朝鮮学校の支援活動にも誰よりも意欲的に取り組んだ。

名古屋朝鮮初級学校に通う園児学生たちへよくプレゼントを渡し、喜ばれた。プレゼントされたもののひとつ、「チウゲ(消しゴム)」は、成人した今でも手に持っているそうだ。今年3月に愛知朝高を卒業した学生たちも、「チウゲ」をよく記憶する。園児学生たちの「チウゲ、コマッスンミダ!」という挨拶が何よりも嬉しかった、オモニはそう語る。

朝鮮高校サッカー部が全国大会予選で勝ち上がれば、梅田屋で激励会を開き、選手たちを鼓舞した。その発展上の企画として、最近「梅田屋カップ」が生まれた。元Jリーガーの安英学選手を招いた、朝鮮高校を卒業する学生たちのためのサッカー大会だ。余談ではあるが、安英学選手もオモニにお世話になったアスリートのひとりである。

オモニは、バリバリの活動家である。その集大成は、自身が発起人となり開催した、朝鮮学校チャリティーコンサート「ウリエノレ」。今まで計3回開催した。地域に住む老若男女、活動家や経済人、すべてを網羅した大イベントだ。

この大規模のイベント、発端は2002年「拉致問題」だったという。直後、在日同胞社会では、朝鮮民族を匂わせる雰囲気を敬遠するような空気が流れていた。当時のある若者がオモニに相談したらしい。「オモニ、何ですか。この雰囲気は。最近全く、ウリノレ(私たちの歌)を聞かなくなったじゃないですか。私たちが悪いことをしましたか。」

その彼、朝高時代は相当なワルだったそう。しかし、民族の誇りは忘れたことはない。聞く話によれば、車の中は、いつも共和国が誇る「ウリノレ」がガンガン流れていたそう。オモニもこの言葉に「ハッ」となったそうだ。

記念すべき第1回目は歌劇団を招き、「ウリノレ」一色に染まった公演にした。2016年には第3回目を迎えた。千葉県の朝鮮学校に通う学生がとても歌が上手いと聞いた。オモニは、彼をあたたかく招待し、スペシャルゲストとして出演させることに成功。会場には割れんばかりの大拍手が溢れ、感動の涙を誘ったのは言うまでもない。

その夜、出演者、関係者、全員梅田屋に揃った。述べ100名以上。貸切となった梅田屋は歓喜のウリエノレが留まることを知らなかった。「在日朝鮮人として生きてきて、本当によかったと実感した」と皆は口を揃えた。

サンキュー!サンキュー!オモニ!!

藤田保健衛生大サッカー部は、医学部のサッカー大会(西日本医科学生総合体育大会)で決勝戦に進出した。ヨンチョルが大学6年のときである。ヨンチョルとは、オモニの息子である。医者として病院に勤務し、青商会活動に熱心に励む。3児の父であり、2021年4月に長女が朝鮮学校に入学する。

立派に育ったヨンチョル、朝鮮高校時代は「サッカー馬鹿」だった。全国高校サッカー大会愛知県予選ではベスト4を経験した。オモニは「小学校の頃は優秀だったけど、中高時代は全く勉強しなかった」と振り返る。だが、それほど心配はしていなかったそう。男はスポーツをやってなんぼ、オモニはそう考えていたからだ。

ヨンチョルは高校を卒業後、浪人生活を経て、藤田保健衛生大学へ進学し、サッカー部にも入部した。初めて経験する日本人とのサッカー。不安はあったらしい。しかし一瞬で吹き飛ぶ。オモニの商売理念に影響を受けていた証かもしれない。当時51名在籍していたサッカー部。ヨンチョルはレギュラーのポジションを確保した。

そして迎えた大会。チームは一丸となり、勝ち進んだ。その陰で、52番目の選手として、チームに貢献するスーパースターがいたのをご存じだろうか。オモニだ。大会期間は精神的支柱として、チームに帯同した。声が枯れるほど応援した。グルメ担当も務めた。試合後に選手らにキムチやチャンジャを振る舞った。「美味しい!美味しい!」と選手たちは頬張った。

食材がなくなるスピードは早いもの。オモニは、堺の肉屋まで走り、40人前の食材を購入。それを焼き、選手たちへ提供。決勝戦前夜のこと、オモニは大胆な行動に出る。次は鶴橋に向かった。そこで豚肉6キロを購入。ホテルの厨房で切って、チョジャンをつけて食べさせた。

藤田保健衛生大学サッカー部は、見事に優勝を成し遂げた。歓喜に溢れる選手たち。歓喜の抱擁を互いに交わす。束の間、応援団から叫び声が聞こえてきた。最初は、何を言っているのか全く分からなかったとオモニは振り返る。耳をすまし、ようやく理解できた。彼らの叫び声とは、

『サンキュー!サンキュー!オモニ!!サンキュー!サンキュー!オモニ!!』

オモニは選手たちに胴上げされ、歓喜の宙に舞った。

「彼らは将来ドクターになる。どの病院に行っても、大学時代のサッカー大会で、在日の鄭先輩とあのオモニもいたなーって思い出してくれると嬉しい」

オモニから愛知県青商会へ

新型コロナウィルスの影響で時短営業や休業を強いられ、75年の歴史を誇る梅田屋も、大変な時期だった。ただ、時代に沿ってやり方を変える必要性はあるし、生活様式が変わるのであれば、それに対応できるようにしなくてはいけないと悟った面もある。休業日は日曜日から平日に変更した。日曜日に気軽に訪れてほしいとの思いだ。

さて、最後にオモニから愛知県青商会へのメッセージを預かった。

『高齢化社会が急速に進む中、青商会活動に励む会員たちの役割は計り知れないほど大きいです。同胞社会の中で、力もあり影響力もあり経済力もある青商会は、全てを握っているといっても過言ではないと思います。

こんな厳しい情勢だからこそ、ウリハッキョのために、全力を果たしてほしいです。そして朝鮮人として生まれてきて、本当によかったと思えるような子を育てるため、青商会が何を出来るのか、常に考えて行動してほしいと思います。

新型コロナウィルスの影響で、今年予定していた「第4回ウリエノレ」は延期となりました。しかし、間違いなく近い未来に開催します。その時は、名中地域の青商会だけではなく、愛知県青商会が一体となり、「第4回ウリエノレ」のために協力してくれることを願います。』

“最高のバックアップ体制”で愛知バスケ界を盛り上げる

2019年9月、愛知朝中女子バスケ部が在日朝鮮学生中央体育大会で、創部史上初の優勝を果たす等、近年、愛知県ウリハッキョ(朝鮮学校)バスケ部の活躍が著しい。選手たちの絶え間ない努力が実を結んだ結果だ。

そしてその陰には、オンザコートの選手たちを全面的にバックアップする、OBたちの力があった。権勇錫県会長を筆頭に、青商会の最前線で活躍する会員たちも名を連ねる。

日々、多忙を極めるOBたちは、なぜそこまでアツくなれるのか?どのような活動を続けるのか?

その真相について、1999学年度愛知朝高籠球部主将であり、愛知籠球協会現理事長の金正吉氏が語ってくれた。

朝高籠球部OB会と愛知籠球協会の“強力タッグ”

ウリハッキョバスケ部強化のために、まずは朝高籠球部OB会と愛知籠球協会の差別化を図り、各団体の役割分担をより明確にすることから始めました。

実質、両団体に属するOBは被る傾向がありますが、「OB会」という名前を使うことによって、全てのOBの名簿を作成し、各年代ごとに連絡を取れる体制をつくることが出来ました。より多くのOBたちが、関わりやすくなったと思います。

結果、多くの協力を得られることとなり、学生達により良い環境をつくってあげることが出来ました。

具体的には金銭面の支援が主となります。練習や試合で用いる用具、例えば、バスケットボール、ビブス、ユニフォーム、練習着、練習器具等の購入に充てています。また、長期連休のあいだに行われる、強化合宿や遠征の援助金としても使用しています。

夏に行われるOB会では、学生たちの試合相手になり、アドバイスを送ったり、学校で焼肉を準備して、公式戦に向けて激励の言葉を送ったりしています。

一方で、愛知籠球協会の活動は、金銭面以上に技術的な支援が目立ちます。特に、初級部、中級部、高級部のバスケ部監督やコーチたちとの連携を強化しました。

定期的に協会理事長と会長、指導者たちとの合同会議を開き、各カテゴリーごとに報告をしてもらい、共に解決策を模索しています。そして、学生指導をより焦点化する目的で、外部コーチを派遣しています。監督やコーチと連携を深め、練習や練習試合、公式戦で指導に励んでおります。

2年前から協会とOB会が一体となり、新たな取り組みとして、チャリティーゴルフコンペを開催するようになりました。

2019年は約50人、2020年は約60人の人達が参加してくださり、多くのチャリティー金を集めることが出来ました。それは、すべて協会とOB会の判断で学生達の為に使わせて頂いています。

支援活動は“使命”であり“当たり前”

愛知籠球協会の理事長という大役を任せられ、少なからずプレッシャーはありますし、辛いこともあります。しかし、自分が学生時代だった頃を振り返ると、そこにはいつも愛知籠球協会や朝高OB会からの温かい支援がありました。

また、学生時代にバスケ部で過ごした時間があったおかげで、今の自分があると思いますし、今もその時の仲間や先輩達に支えられながら生きていると思っています。

バスケを通して、大事な思い出をつくれました。自分たちが受けたことを考えると、自分がOBの立場になって、支援活動を行うことは、使命であり当たり前のことだと思っています。

子供たちにも今だけではなく、今後も大切な思い出や、一生の仲間を作って欲しいと思っています。

しかし大前提として、それを実現させるためには、まずバスケ部自体の存続をしなければなりません。

少子化問題も相まって、ウリハッキョに通う子供達が減少している中で、バスケ部の存続を守る為には、部員を増やさなければなりません。部員を増やすためには、我々が環境を整えてあげなければなりません。とすると、支援することは必然だと考えています。

李延男会長の背中を追いかけて

私が活動を続けられる要因として、愛知籠球協会会長の李延男先輩の存在も大きいです。長年、愛知バスケ界に尽力されてきた大先輩ですから。高校時代の実績も輝しく、中央体育大会では幾度も優勝を経験している、本当にすごい選手です。

私は、愛知籠球団に所属していた時から、プレイ面でもプライベートの面でもお世話になりました。会長の“バスケ愛”には頭が下がります。

仕事や家族があるのに、愛知籠球団でも、他のバスケチームでもバスケを続け、常に高みを目指しています。ウリハッキョ学生への指導も怠りません。休日には練習や練習試合に参加し、大事な公式戦は、仕事を調整してでも向かいます。

また、最近では、中央青商会会長として、全国を訪れる機会も増え、とても多忙であったにも関わらず、一切の妥協も見せない、本当に尊敬できる人です。そんな会長の姿を見てきました。

今後もOBとして活躍してほしい

振り返れば、今このようにプライドを持って活動ができることは、朝鮮大学校を卒業した後、権勇錫先輩から誘われて、愛知籠球団の練習に行ったことが始まりです。当時は「騙された」と思いましたが、今はバスケを続けたことに何の後悔もありません。

今後も、学生たちがバスケを通して逞しく育ってほしいと思います。また、どんな大会や、目標の公式戦でも頑張って結果を残してほしいし、結果につながるような環境づくりをさらに強化していきたいと思います。

私自身、朝中時代、朝高時代とキャプテンを任されましたが、むなしくも大きな結果を残すことは出来ませんでした。その時の後悔はまだ残っています。

ですので、学生たちが、後悔することなく、無事学生バスケを終えられるように、私も全力で使命を果たしていこうと思います。

最後に学生たちへ伝えたいことですが、バスケ人生に終わりはありません。プレイを終えることはあっても、支援活動はずっと続きます。朝高を卒業後は、OB として、共に子供たちの未来のために頑張りましょう。

取材後記

取材を終えて、感じることがたくさんありました。愛知籠球協会・金正吉理事長はじめ、愛知バスケ界に関わるOB皆様の熱意に脱帽せざるを得ません。金正吉理事長からの言葉からも、力強さを感じました。

愛知朝高バスケ部と言えば、とにかく強いイメージしかありません。私が中1の頃の朝高バスケ部主将が、愛知籠球協会・李延男会長で、中央体育大会を圧倒的な点差で優勝したことを覚えています。

私はバスケ部OBではありませんが、ド素人ながらも5年ほど、朝高バスケ部のコーチを務めました。その時に、愛知籠球協会やOB会の温かい支援を肌で感じましたが、改めて今回の取材を通して、それを思い知りました。

今まで、愛知籠球団やOBたちの試合を数多く観てきましたが、愛知バスケの特徴は「上手さ」だと思います。華麗なパス捌きや、ドリブル、シュートフォーム、そして相手DFを綺麗に崩して得点を奪う攻撃スタイル。

それが愛知の DNAだとすれば、強いメンタルに加え、そのDNAを引き継ぎ、「愛知のバスケスタイル」で、全国の舞台で活躍する姿を見たいと思います。

(フルスロットル愛知第4号特集長編版)

第4号はコチラをどうぞ。

朝高サッカー部と「共に」愛知同胞の夢を叶える!いざ選手権へ! 〜選手権出場のために、OB ができること〜

毎年冬に行われる「全国高等学校サッカー選手権大会」。全国高校サッカー選手たちの憧れの聖地である。愛知朝高サッカー部も、ここを目指し、日々奮闘する。

しかし、その夢は選手だけのものではない。選手権に出場資格すらなかった OB たちや、あと一歩のところで涙を流したOBたちの「夢」でもある。それゆえ OB たちの、ウリハッキョ(朝鮮学校)サッカー部への支援は厚い。

その中に、「選手権」に対して特別な感情を抱く男がいる。朴推典だ。母校サッカー部をこよなく愛し、十数年間、 選手たちと共に成長を目指してきた、その想いについて訊いてみた。

2000学年度愛知朝高サッカー部主将として、「悲願の選手権初出場」を目指し、サッカーボールを追い続けた推典。
全国の朝高サッカー部が集う中央体育大会では、優勝を果たし、全国朝高の頂点に立つと同時に、愛知朝高に久しぶりの優勝カップを届けた。
選手権予選は、周囲の期待通り、愛知朝高史上初のベスト4まで勝ち進むも、準決勝で、惜しくも中京大中京に0-1で屈する。
勝者は決勝戦で5-0 という快勝で全国出場を決め、「悔やまれる結果」に追い打ちをかけた。だが、これが推典の運命を大きく動かす。

編集部(以下、編):朝高サッカー部はじめ、ウリハッキョサッカー部への支援活動を長年続けてこられたと思います。そのきっかけについて教えて下さい。

朴推典(以下、推) :選手権予選の準決勝で負けたことが、やっぱり大きいですね。当時、県内では、どの高校よりもバックアップ体制、関心、戦術、体力は整っていたと思います。だけど、「下手でした」。

1本のパス、ドリブル、シュートの精度が低かったから負けた、それがすべてです。技術があれば、朝高は選手権に出られる、他は全部揃っていますので。

その為には、ジュニア年代のレベルアップが必要、自分がそこに関わり、李太庸監督のもとに良い選手を送ろう、そう思ったのがきっかけでした。

編:これまで沢山の子供たちの指導に携わってきたと思いますが、選手の育成において、中心視したことは何ですか?

推:常に子供たちに伝えていたのは、「技術は気持ちが支える、押し上げてくれる」ということでした。どれだけ技術があっても、それを発揮できるメンタルがなければ無いのと同じ。

勝ちたい、上手くなりたいという、目の前のことに対するものだけではなく、オモニが休日にもお弁当をつくってくれること、送迎してくれること、毎回応援に来てくれること、ソンセンニン(先生)達が休みもなく一緒にサッカーをしてくれること等、いろんな人達の支えがあること、その人達の想いを忘れないことを強調しました。

そんな選手が上手くなるし、強くなる、そのプレーは、観ている人たちの心を掴むこともできます。高校の時に学んだことをそのまま伝えていました。

編:仕事を抱えながら、ウリハッキョで指導を続けることが出来たモチベーションは何でしたか?

推:ただ好きだったからです。サッカーが、子供たちが。そして、サッカーを指導させてくれる環境があったからです。

会社、学校、先生、学父母、子供たちが受け入れてくれたから以外、無いですね。特にウリハッキョとソンセンニン達には感謝しても、しきれないです。特に実績があるわけでもない自分を、温かく受け入れてくださったので。

そして僕は、陰ながらウリハッキョの支援を続ける同胞たちから、たくさんのことを学びました。自分自身が、表舞台で活動できることを考えれば、途中で投げ捨てることは絶対にできませんでした。

上記のとおり、推典は、ゴールデンエイジと呼ばれ、技術的に最も伸びると言われる小学校世代を対象に、名古屋朝鮮初級学校サッカー部で、コーチとして指導に長年携わってきた。
関わった選手たちの中には、現在、朝高サッカー部監督を務める、李晃輔先生がいる。推典は、サッカーの基礎からみっちりと教え、原石を磨き上げた。
李晃輔先生は「サッカーの楽しさだけではなく、サッカーに対する情熱を学んだ」と振り返る。彼もまた、愛知朝中3年時に、主将として史上2度目となる全国優勝を成し遂げるのであった。

編:推典氏は、愛知朝高サッカー部 OB 会でも長年活動をされていると聞いています。どのような支援活動をされていますか?

推:主としては、愛知朝高サッカー部への財政的なバックアップです。今は中級部や初級部へのバックアップも行っています。

収入源はOBの皆様から頂く年会費、イベント広告費、ゴルフコンペでのチャリティー金、OBの方々からの寄付となります。その頂いたお金で、選手たちの遠征費の補助や、グラウンド使用料、必要備品の購入などに充てています。

特に高校サッカーは、金銭的に負担が多いので、少しでも足しになればと思います。

編:毎年夏に行われる OB 会イベントも盛大ですね。

推:そうですね。OBも沢山集まり、学生たちと一緒にボールを蹴ったり、焼肉を食べたりと、とても盛り上がりますね。

またタイミング的にも、選手権予選開幕の直前なので、選手たちを叱咤激励するベストな時期だと思います。

OB会では、OBたちを募って、選手権に応援に向かいます。

編:実際は、とても大変なことだと思いますが。

推:僕たちが高校の時にしていただいたことを、今は自分達がしているということです。

高校時代の恩師・李太庸監督が、常々おっしゃっていた言葉が「恩を仇で返すな。背恩忘徳な人間にはなるな」でした。何事にも感謝を忘れず、「受けたご恩は返しなさい、そしてそれを次に繋ぎなさい」と。

とても心に響きました。『恩送り』ですね。これは今の自分たちの活動の源泉であり、大事にしていることです。

編:最後に、「朝高サッカー部はこうでなければいけない!」と思う事を教えて下さい。

推:強くあってほしい、勝ってほしいというのが、OBたちが望んでいることです。

ですが、自分が上手くなるために努力し、チームの勝利の為に走って、応援してくれる人達の声援を力に、あと一歩足を踏み出せる、どんな状況でも決して諦めることなく戦う、そんな選手が集まったチームになってほしいと思います。

その姿は、観た人達の心を掴みます、そんなプレーに一喜一憂し、負けた時は一緒に悔しがり、涙を流します。言うなれば【共に戦えるチーム】であってほしいですね。

そんなチームを通して、自分ももっと頑張ろうという活力を、周りに与えてくれます。そんなチームと全国大会で共に戦うことが、僕たちOBの目標であり、すべての活動の源泉です。

(フルスロットル愛知第4号特集長編版)

第4号はコチラをどうぞ。