コリアン食堂物語〜最終話「同胞社会の継承のために」〜

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オープン初日目、コリアン食堂は大勢の客で賑わった。

キムチやビビンバ、ポッサム、プデチゲ、そして若者のあいだでは定番となった韓国屋台トーストサンド等、鮮やかな料理が並ぶ。その中でも、種類を多数揃えたチヂミ、ジャンボネギマは大人気だった。

また、チーズハッドクを担当したのは、尾張地域会員の娘たちであり、話題を呼んだ。本場の味を求め、一般客が大勢、足を運んでくれたことは、ボランティアで励む尾張・南地域会員たちにとっても、自信に繋がったそうだ。

「オソオセヨ!」と「カムサハムニダ!」が交互に飛び交う。調理場で汗を流すもの、元気に接客するもの。

一般客にとって、これがまさか、青商会活動の一環として、全員ボランティアで励んでいるとは、到底知らなかっただろう。しかし、これは紛れもない、青商会が産んだ、青商会による「コリアン食堂」なのだ。

現場責任者は、南から李舜麒会長、そして尾張から文誠孝前会長が担った。

文前会長は振り返る、「とにかく勉強になった」と。各許可申請は大変だったが、その過程で学んだことは多いそうだ。また、南地域からも刺激を受けた。

「南との合同開催ということで、試食会、打ち合わせを行ったが、南の本気度を感じた。毎週土日に営業する大変さはあったが、尾張、南個々に時間を割いて、目標のために一生懸命営業していたことを肌で感じた」。

順風満帆ではなかった。新型コロナウィルスが邪魔をした。

1月中旬から約1ヶ月間の休業を迫られた。限定オープンということもあり、店頭に立てない寂しさ。売上に対する不安もちらほらと。

お客は連日訪れていたが、実際に利益という結果につながるのか。不安が募れば、地盤が緩む。しかし揺れなかったのは、総責任者の高博史氏。

「もう一度、本気でやろう」。

お客様の安全を守るため、コロナ対策をより一層強化した。再オープンのチラシを作成し、一日に何百枚と配った。

2021年2月20日。コリアン食堂は営業を再開した。3月28日のオーラスまで、およそ1ヶ月。

お客は裏切らなかった。一般客もさらに徐々に増え、同胞たちもたくさん駆け付けた。三重県からわざわざ訪れた仲間もいた。三重県青商会のメンバーだ。

30年前の教師たちも訪れた。第三(チェーサン)時代のソンセンニンご夫婦だ。地元の港区で、教え子たちが、頑張っている。その姿に鼓舞されたと。

嬉しさを上回る、嬉しさだった。「コリアン食堂は言わば、同胞たちが互いに再会できる場になったような気がした。そんな場を創造し、提供できたことが何よりだった」。

2021年3月28日、コリアン食堂は閉幕した。最終的な利益は、協力金も含めて、およそ260万円。

短い期間であったが、彼らはやり切った、出し切った、走り切った。あれから2ヶ月が過ぎ、高博史氏は振り返る。

「他地域との合同開催という初の試みで、難しいこともあり、互いにぶつかったこともあった。しかし全員が『奉仕』の気持ちを忘れず、最後まで励んでくれた。

また、今までの財政活動の経験が、この場でも活きたはず。そう考えると、今までの積み重ねは全く無駄ではなかったし、このような結果に繋がったと思う。

コリアン食堂に足を運んでくれた皆様には、感謝の気持ちでいっぱい。彼らは、きっと、『自分たちの顔を立てに来てくれた』。お互いに助け合うことが、いかに重要かを感じた。これからも全力で『奉仕』していこう、そう決意させられた」。

思えば、何もない状態からのスタート。尾張が立ち上がり、南が加勢した。彼らは、一歩一歩、着実に歩み、「コリアン食堂」を築き上げた。

「短期で店を構え、限られた時間の中、スタッフ全員であらゆる事を、知恵を出し実行して、つまずいても互いに助け合い、愚痴を飲み込み、乗り越えれたことが、次のChanceに繋がった」と未来を見据え、

高氏は「総責任者として、尾張、南のメンバーにわがままをたくさん言ったが、このメンバーじゃなかったら、やり遂げれなかったと思う。ありがとう」と、感謝の気持ちを述べた。

コリアン食堂を終えた今も、とどまることを知らない。

「愛知県青商会を立ち上げた諸先輩方、特にキョンドゥ兄から肌で感じさせてくれたことは、自分に大きな影響を及ぼしてくれた。

そんな同胞社会が「継承」していけるよう、ボランティア事業は続ける。我々は、今もどこかでボランティアに取り組んでいる」。

―完―

コリアン食堂物語〜第3話「楽しく 本気で 挑戦する」〜

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コリアン食堂・総責任者の高氏は提案した。

「コリアン食堂の運営は、南地域とコラボする」

尾張地域メンバー全員、その考えに賛成した。

なぜ南地域とコラボなのか?

この質問に対して、高氏は以下のように説明してくれた。

大きくは2つ。ひとつは、出店するメイカーズピアが南区に隣接する港区に位置したこと。そうすることによって、効率良い作業ができると思った。南地域の会員たちはアツイ。そのメンバーたちとコラボすることは、尾張にとってもプラスに働くとも感じた。

もうひとつは、李舜麒会長の存在。

李氏の兄とはチェーサン時代からの親友ということもあり、幼少期から可愛がっている弟みたいな存在だった。ただ「可愛い」から一緒にコラボしたいわけではない。それなりの理由があった。

南地域青商会と言えば、全国的にも模範的な地域であり、県内では「最優秀地域KYC賞」に最も近いとも言われているほどだ。

その伝統を引き継いできた金正壽前会長からバトンを受け取り、李氏は奮闘を誓う。李氏が着目する点は、会内の長けている部分ではなく、課題点。それはまさしく、財政事業であった。

南地域の財政のメインは、会員たちから集める会費だ。その会費は決して軽いものではない。色々と事情があっても、何とか会費を捻出してくれる会員もいれば、お小遣いから会費を払ってくれる会員もいる。李氏は、会費に依存する体制を早く抜け出して、地域や学校に貢献できる仕組みを構築したい、そう考えていた。

「青商会活動の場は、無料で色々な経験が出来る場所」と考えていた李氏。「何かヒントを得たい」と向かった先が、尾張地域だった。財政事業に真剣に取り組み、目標額を達成するため、一丸となる姿は、李氏の目標となる。

南地域は、財政事業の一環として「フリーマーケット」出店の経験がある。しかし、より大きな財政を確保するため、一宮七夕まつりに学ぶことが多いと思った。そのような経緯で、李氏は、一宮七夕まつりの仕込みに、お手伝いとして一日体験をした。

「4日間の開催中に、多くのお客さんを呼び込み、暑い中、鉄板の前で調理、接客、次の日の仕込まで全て終わらせ、また営業をします。僕は一日だけ体験させてもらいましたがキツイですね。半端な気持ちじゃ、絶対に出来ないと思いました。

また、尾張の財政事業の良い面は、お客が在日だけでなく、むしろ地域の日本の方々に協力して頂いてるところです。こういう面を見習い、南地域にも導入すべきと思いました」

高氏は、李氏の気持ちを見逃さなかった。しっかりと見ていた。だからこそ、兄貴として教えれることを伝えたかった。

「一緒にやろう」

正式にオファーを受けた李氏は、当時の心境を次のように振り返った。

「自分の中では何の迷いもなかったです。率直に『やりたい!』と。以前から、会員たちもお祭りの出店等やってみたいという意見もありましたので、こんな良い話はないと思いました。今年の目標が『楽しく』『本気で』『挑戦する』。ピッタリだと思いました」

オープンを目指して、尾張と南のコラボが始まった。準備期間は、とにかく楽しかったと振り返る。メニュー開発は素人集団なので不安もあったが、みんなと意見を出し合った。ワイワイガヤガヤした雰囲気の中、一体感も生まれる。同じ志を持つ会員との活動、地域が違っても楽しいなと感じた瞬間。

初めての経験だったが、楽しく本気で挑戦した。

そして2020年12月26日。ついに「コリアン食堂」がオープンした。

(最終話へ続く)

最終話は6月21日更新予定です。

コリアン食堂物語〜第2話「義理と人情と恩返し」〜

第1話はコチラからどうぞ。

「今、自分があるのは全てウリハッキョのおかげ。沢山のチング達と出逢え、苦しみ悲しみ分け合い、それ以上に青春時代を楽しく過ごせた。

1番大切なのはお金ではない。家族、仲間だ。家族の協力がなければ、ボランティアも出来ないし、仲間がいなければ、何も出来やしない」

ウリハッキョがあったから、今、青商会活動を頑張れると胸を張る。

力強く語る高氏、その姿は自信に満ち溢れた。

名古屋市港区で生まれ、小学校時代は「チェーサン(第3)」で過ごす。

チェーサン出身はやんちゃ者が多いと言われるが、やはり高氏もやんちゃだった。

その後、朝中に進学。卒業後は朝高には通わず、そのまま就職する考えだった。働いて家計を助けたかった。卒業間近、トンムが家まで駆けつけてきた。

「博史、一緒に朝高に行こう。3年間頑張って、一緒に卒業しよう」

基本、自分が思ったことは曲げない。しかし、情熱に心を打たれ、朝高進学を決意した。

この選択は正しかったと高氏は振り返る。朝高で、長野県出身の親友とも出会った。毎年冬になると、長野まで泊まりに行くほど。

親友は、現在、中央青商会幹事兼中部ブロック長を務める。もちろん今でも親交はある。

朝高卒業後は、働く道を選んだ。数年後、自立した高氏は、ホームタウンを尾張地域に移す。逞しい人材へと育ち、会社も設立した。

地域の在日の先輩、後輩たちともすぐに打ち解ける。もちろん、日本の仲間とも交流は深い。

そして転機が訪れた。ちょうど、尾張地域青商会を立ち上げる話が出た時だった。

「先輩、一緒に青商会活動をやってくれませんか?どうしても先輩の力が必要です」

熱を込めて嘆願したのは、権勇錫氏だ。現県会長の権氏は、誰よりも高氏を求めた。高氏に迷いはなかった。

「青商会に声をかけてくれた勇錫は、青商会に限って言えば、俺の兄貴みたいなもんだ。勇錫に華を持たせたい。それが俺の使命でもある」

高氏の青商会活動はこのようにして始まった。

一生懸命取り組んだ。その過程で、また新たな出会いがあり、楽しい思い出も増えた。

何をするにしても財政が必要、ないのであれば自分たちでつくるしかない。

一宮七夕まつりでの出店、キムチ販売、自分たちが出来ることは全部出し切った。率先して、キムチを販売した。率先して、キムチを配達した。率先して、ネギマを焼いた。

飛び火のごとく、後輩たちも率先する。

「アツイどころではない、素晴らしい先輩」と文誠孝・前尾張会長は語る。

 <やらぬ善よりやる偽善>

 これは高氏の座右の銘。

この積極的な姿勢が、財政活動がうまくいっている要因かもしれない。 

「俺たちは、賞を貰うためにやっているわけではない。地域活性化のためであり、子どもたちのためであり、何よりも自分を育ててくれた、ウリハッキョのためだ。恩返しだ」 

そして、今。「コリアン食堂」という新業態で、恩返しをする。

高氏は、動く。可愛い後輩へ連絡を入れた。南地域青商会会長の李舜麒氏だった。

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コリアン食堂物語〜第1話「迷いはなくただ実直に」〜

『新型コロナウイルスの感染防止と、来場・市民の皆さんの健康と安全を確保することを最優先に考え、第 65回一宮七夕まつりは開催を中止とする』

衝撃が走った。

本来ならば、2020 年 7 月 16 日〜19 日までの 4日間、お祭りで賑わうはずだった。長年続いてきた伝統のお祭り。コロナの影響で中止せざるを得なくなり、市民は落胆しただろう。

尾張地域青商会もその渦中にいた。

彼らは一宮市を拠点に活動する。会員のほとんどが一宮市またはその近辺に在住する。愛着がある。そんな彼らにとっても、お祭り中止の知らせは、かなり響いた。

毎年、お祭り期間に屋台を出店し、特大ネギマを売る。4 日間でおよそ100万円の売上、40〜50万の利益を生む、一大財政イベントと呼んでも過言ではない。

尾張地域青商会。「財政事業のお手本」として、全国に名を馳せている。

尾張の財政事業の主軸は、「キムチ販売」と「一宮七夕まつり」にある。キムチを調達、販売、自主的に配達まで行い、毎月、約10万円ほどを確保する。

と言っても、祭りでの出店は、短期間で毎月のキムチ販売の利益より、何倍もの利益を生むため、相当な痛手となる。

また、「地域活性化」という観点からも、マイナスだ。仕込みから販売に至るまで、支部、女盟、そして会員たちの家族も含めて、「オール尾張」が絡むからだ。

さあ、どうする。

尾張地域青商会・高博史生活文化部長(以下:高氏)は動じなかった。

「失ったのであれば、また新しく創造すれば良い。財政活動というのは、特定の期間だけ行うものではない。常にやっていくものだと思う」

尾張青商会に一宮七夕まつりの話を持ち込んだのは、高氏である。「一宮七夕まつり」で得るはずだった財政の穴埋めをする。高氏は、その責任を全うすることを決意する。

現実は、そんな簡単なことではない、財政を確保することは。

尾張地域青商会はミーティングを繰り返し、知恵を絞りに絞った。が、一筋の光はまだ見えてこない。そんな刹那、一本の電話が鳴る。昔から親しく交流している日本の友人からだった。

「レゴランド前のメイカーズピア内で、出店の話がある」

高氏はピンと来た。「これだ!」

定例会の場で提案し、承諾を得て、実行が決まった。一宮七夕まつりでの出店に代わるもの、それがまさしく、「コリアン食堂」であった。新しいビジネスチャンスを、尾張自らの手でつくりあげた。

出店準備も大変だろう、限定開催期間も大変だろう。しかし、そんな心配よりも期待のほうが大きかった。

「ウリハッキョのために、子供たちのために、地域のために」

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各地域の最近の活動を紹介

今回は、最近の各地域の活動について紹介します。

東春守山、尾張が総会を行い、新会長のもと、それぞれ新しい期がスタートしました。

3月中旬まで、尾張と南が合同でコリアン食堂を営業。尾張は他にもキムチ販売事業を、継続して行なっています。

ウリハッキョ支援活動では、名駅名西が名古屋幼稚園に、絵本と除菌ウェットティッシュを寄贈。

南が名古屋初級学校の壊れた遊具を修復。瀬戸豊田が第七初級学校の掃除。名港が名古屋初級学校の一口運動に参加しています。

2月には、東春守山地域でチャリティーコンペを開催しました。

地域の子供達のために、各地域で卒業卒園や入学入園のお祝いのプレゼントを贈呈。尾張では幼稚園児〜高校生までを対象にアイアイ応援金。

また、サラン学園を尾張では継続的に行なっていて、5月8日から東春守山でも再開されました。

他にも、5月20日のチャリティーゴルフコンペの成功に向けて、各地域で積極的に活動しています。

これからも、地域同胞社会のため、子供達のため、ウリハッキョのために、各地域がそれぞれの特色を活かして、できることを行なっていきます。

生活文化部の活動を紹介

アンニョンハシンミカ☀

“新しいイベントを発案・企画・実行し、愛知青商会活動の可能性を広げる“をモットーに活動しています、生活文化部です!!!

今日は、生活文化部がどんな活動をしているのか、ご紹介します!

1つ目は、趣味・趣向・共通点をテーマにした “アイチdeモア”

2ヵ月に1回のペースで、定期的な小規模食事会やイベントを開催しています。

会員の交流の場として、また会員以外にも、青商会に興味を持ってもらえるようなきっかけ作りの場にしたいと、趣味や共通点別で月ごとにテーマを決めて、開催しています!

2つ目は、在日同胞の男女が出会うイベント♡

青商会の人脈を生かし、会員の民族結婚を後押しすべく、男女の出会いの場を提供しています。

昨今のコロナ禍で、企画した対面でのイベントは軒並み中止となり、この時期だからこそ出来るイベント、この時期じゃなければ出来ないイベントはないかと模索して辿り着いたのが、“トンポリモートコンパ~出会いは自粛できません~”(略してリモコン)です!

全国に先駆け、愛知&兵庫県青商会がタッグを組み、合同で企画・開催したリモコンは、

ZOOMを使ったオンライン・マンナム企画で、今日までに3回実施しました。

参加した男女からは、『予想以上に楽しかった』との声もあり、連絡先交換率は70%以上✨

リモートならではの企画も用意していて、ブレイクアウトルームという機能を使って、1対1の会話も楽しめます♡

ZOOMに不慣れな方も、運営スタッフが事前案内からアフターフォローまでしっかりしているので、安心して参加していただけますよ!

今後も積極的に開催予定で、リモコンが出会いの主流になる予感♪

ここまで活動をご紹介しましたが、これからも会員が楽しく参加できるイベントを企画し、愛知県青商会の可能性が広がる活動を展開していきたいです✨

「人情」が見守ってきた梅田屋75年の歴史

梅田屋の創業は昭和20年(1945年)。昨年、創業75周年の節目を迎えた。今池駅から徒歩1分という好立地にそびえ立つ。初代オモニの時代から続く、八丁味噌ベースのタレが利いた鉄板焼肉、ホルモン鍋。梅田屋の「顔」と言っても良い。

オモニがお店を継いだのは1998年。この期間、在日同胞のみならず、数々の日本人のお腹を満たしてきた。著名人や有名アスリートもこの味を知る。

創業75周年を迎えた梅田屋の人情について、編集部が取材した。

初代オモニが残してくれた財産

戦後まもなく、今池の地で、梅田屋は産声を上げた。創業者は南栄淑氏の両親。在日同胞1世だ。アボジが他の仕事で多忙だったため、お店を主として切り盛りしていたのは、初代オモニであった。

店は連日賑わいをみせた。それはそうだ。あそこには、伝統の味があるから。鉄板焼肉とホルモンは、同胞のみならず、日本のお客にも好評だった。

南氏はそんな梅田屋を、そして店主であるオモニを、幼き頃からよく見ていた。オモニを「根性のオモニ」と振り返る南氏。どんなに多忙だろうと、どんなに辛かろうと、弱音は一切聞いたことがない。オモニはよく「塩を舐めても、白米を食べたような顔をしろ」、「自分の1円を尊く扱え」と言い聞かせた。今でも心に響く。そんなオモニを「隠れた英雄」とも記憶している。

総連の活動家や朝鮮学校の先生からは、食事代を請求することはなかった。また、日本人のお客にお願いして、在日朝鮮人の権利獲得のための署名を集めた。オモニにはオモニなりのやり方があったのだと、感じたらしい。先述のとおり、日本人のお客も大切にした。そもそもオモニには、日本人や朝鮮人との境界線はなかったのだ。

『人間はみな平等』

『朝鮮人も日本人も良い人もいれば悪い人もいる、日本の人と敵対するべきではない』

こんなエピソードがある。むかし、名古屋工業大学のある学生が、空腹を満たすために、よく梅田屋を訪れた。苦学生であったため、ほんの少し注文しては、間もなく帰路につく。そんな学生を横目に、オモニは、他のお客が飲み残した瓶ビールを、少量ずつ蓄えては冷蔵庫に保管し、学生が来店するたびに、無償で差し上げたそうだ。学生はその後、大手フィルムメーカーに勤め、成長した姿で梅田屋を訪れた。「若者を大切にする人情の人」とオモニに感謝した。

オモニは、梅田屋の常連客や、そこでアルバイトをしていた若者から手紙を何枚ももらったそうだ。今でも自宅に大切に保管されている。南氏はそれらをひとつに、記念文集をつくる計画だったが、結局果たせずじまい。当時常連のひとりであったT氏は、自身を貧乏学生としながら、「梅田屋のオモニ」という題で、手紙を届けた。そこに書かれたあるフレーズに目が離せなくなった。

『オモニ、そして梅田屋の存在は、すでに失ってしまった「日本の心のふるさと」、「母」そのものであると僕はいつも思っている』

オモニが脳梗塞で入院をしたのは70歳を過ぎた頃。「自分の代で終わりにしよう」と決めていたとのこと。辛い経験をさせたくなかったのかもしれない。南氏自身も躊躇する面もあった。だが、2代目オモニとして梅田屋を継ぐよう、背中を押してくれたのは、夫である鄭大基氏だった。

そして1998年、初代オモニの「人情」を継承すべく、2代目オモニとして南氏は立ち上がった。

2代目オモニはバリバリの活動家

家族を支えながら、2代目オモニ(以下オモニ)は、初代から続く伝統の味と、教えを忠実に守ってきた。朝鮮人も日本人も平等に接した。著書<在日二世の記録>では、日本の子供たちとの交流について記されている。オモニは、「今池子ども会」という組織を立ち上げ、一緒に遠足に出掛け、冬にはクリスマス会を開き、日常ではボランティア活動を通して教育し、精一杯の人情で子どもたちと接したそうだ。純粋に子どもが好きだった。日本の子どもであっても変わらない。

(この子たちが大人になったとき、ああ近所に朝鮮のお姉さんがいたなって思い出したら、きっとそれは悪いイメージではないだろうな・・・)オモニは、そう感じた。

 お店を切り盛りする傍らで、オモニは名中支部女性同盟委員長として、長年務めてきた。地域同胞社会のために、知恵を捧げた。地域に住む若い母たちとの交流も欠かさない。朝鮮学校の支援活動にも誰よりも意欲的に取り組んだ。

名古屋朝鮮初級学校に通う園児学生たちへよくプレゼントを渡し、喜ばれた。プレゼントされたもののひとつ、「チウゲ(消しゴム)」は、成人した今でも手に持っているそうだ。今年3月に愛知朝高を卒業した学生たちも、「チウゲ」をよく記憶する。園児学生たちの「チウゲ、コマッスンミダ!」という挨拶が何よりも嬉しかった、オモニはそう語る。

朝鮮高校サッカー部が全国大会予選で勝ち上がれば、梅田屋で激励会を開き、選手たちを鼓舞した。その発展上の企画として、最近「梅田屋カップ」が生まれた。元Jリーガーの安英学選手を招いた、朝鮮高校を卒業する学生たちのためのサッカー大会だ。余談ではあるが、安英学選手もオモニにお世話になったアスリートのひとりである。

オモニは、バリバリの活動家である。その集大成は、自身が発起人となり開催した、朝鮮学校チャリティーコンサート「ウリエノレ」。今まで計3回開催した。地域に住む老若男女、活動家や経済人、すべてを網羅した大イベントだ。

この大規模のイベント、発端は2002年「拉致問題」だったという。直後、在日同胞社会では、朝鮮民族を匂わせる雰囲気を敬遠するような空気が流れていた。当時のある若者がオモニに相談したらしい。「オモニ、何ですか。この雰囲気は。最近全く、ウリノレ(私たちの歌)を聞かなくなったじゃないですか。私たちが悪いことをしましたか。」

その彼、朝高時代は相当なワルだったそう。しかし、民族の誇りは忘れたことはない。聞く話によれば、車の中は、いつも共和国が誇る「ウリノレ」がガンガン流れていたそう。オモニもこの言葉に「ハッ」となったそうだ。

記念すべき第1回目は歌劇団を招き、「ウリノレ」一色に染まった公演にした。2016年には第3回目を迎えた。千葉県の朝鮮学校に通う学生がとても歌が上手いと聞いた。オモニは、彼をあたたかく招待し、スペシャルゲストとして出演させることに成功。会場には割れんばかりの大拍手が溢れ、感動の涙を誘ったのは言うまでもない。

その夜、出演者、関係者、全員梅田屋に揃った。述べ100名以上。貸切となった梅田屋は歓喜のウリエノレが留まることを知らなかった。「在日朝鮮人として生きてきて、本当によかったと実感した」と皆は口を揃えた。

サンキュー!サンキュー!オモニ!!

藤田保健衛生大サッカー部は、医学部のサッカー大会(西日本医科学生総合体育大会)で決勝戦に進出した。ヨンチョルが大学6年のときである。ヨンチョルとは、オモニの息子である。医者として病院に勤務し、青商会活動に熱心に励む。3児の父であり、2021年4月に長女が朝鮮学校に入学する。

立派に育ったヨンチョル、朝鮮高校時代は「サッカー馬鹿」だった。全国高校サッカー大会愛知県予選ではベスト4を経験した。オモニは「小学校の頃は優秀だったけど、中高時代は全く勉強しなかった」と振り返る。だが、それほど心配はしていなかったそう。男はスポーツをやってなんぼ、オモニはそう考えていたからだ。

ヨンチョルは高校を卒業後、浪人生活を経て、藤田保健衛生大学へ進学し、サッカー部にも入部した。初めて経験する日本人とのサッカー。不安はあったらしい。しかし一瞬で吹き飛ぶ。オモニの商売理念に影響を受けていた証かもしれない。当時51名在籍していたサッカー部。ヨンチョルはレギュラーのポジションを確保した。

そして迎えた大会。チームは一丸となり、勝ち進んだ。その陰で、52番目の選手として、チームに貢献するスーパースターがいたのをご存じだろうか。オモニだ。大会期間は精神的支柱として、チームに帯同した。声が枯れるほど応援した。グルメ担当も務めた。試合後に選手らにキムチやチャンジャを振る舞った。「美味しい!美味しい!」と選手たちは頬張った。

食材がなくなるスピードは早いもの。オモニは、堺の肉屋まで走り、40人前の食材を購入。それを焼き、選手たちへ提供。決勝戦前夜のこと、オモニは大胆な行動に出る。次は鶴橋に向かった。そこで豚肉6キロを購入。ホテルの厨房で切って、チョジャンをつけて食べさせた。

藤田保健衛生大学サッカー部は、見事に優勝を成し遂げた。歓喜に溢れる選手たち。歓喜の抱擁を互いに交わす。束の間、応援団から叫び声が聞こえてきた。最初は、何を言っているのか全く分からなかったとオモニは振り返る。耳をすまし、ようやく理解できた。彼らの叫び声とは、

『サンキュー!サンキュー!オモニ!!サンキュー!サンキュー!オモニ!!』

オモニは選手たちに胴上げされ、歓喜の宙に舞った。

「彼らは将来ドクターになる。どの病院に行っても、大学時代のサッカー大会で、在日の鄭先輩とあのオモニもいたなーって思い出してくれると嬉しい」

オモニから愛知県青商会へ

新型コロナウィルスの影響で時短営業や休業を強いられ、75年の歴史を誇る梅田屋も、大変な時期だった。ただ、時代に沿ってやり方を変える必要性はあるし、生活様式が変わるのであれば、それに対応できるようにしなくてはいけないと悟った面もある。休業日は日曜日から平日に変更した。日曜日に気軽に訪れてほしいとの思いだ。

さて、最後にオモニから愛知県青商会へのメッセージを預かった。

『高齢化社会が急速に進む中、青商会活動に励む会員たちの役割は計り知れないほど大きいです。同胞社会の中で、力もあり影響力もあり経済力もある青商会は、全てを握っているといっても過言ではないと思います。

こんな厳しい情勢だからこそ、ウリハッキョのために、全力を果たしてほしいです。そして朝鮮人として生まれてきて、本当によかったと思えるような子を育てるため、青商会が何を出来るのか、常に考えて行動してほしいと思います。

新型コロナウィルスの影響で、今年予定していた「第4回ウリエノレ」は延期となりました。しかし、間違いなく近い未来に開催します。その時は、名中地域の青商会だけではなく、愛知県青商会が一体となり、「第4回ウリエノレ」のために協力してくれることを願います。』