「今、自分があるのは全てウリハッキョのおかげ。沢山のチング達と出逢え、苦しみ悲しみ分け合い、それ以上に青春時代を楽しく過ごせた。
1番大切なのはお金ではない。家族、仲間だ。家族の協力がなければ、ボランティアも出来ないし、仲間がいなければ、何も出来やしない」
ウリハッキョがあったから、今、青商会活動を頑張れると胸を張る。
力強く語る高氏、その姿は自信に満ち溢れた。
名古屋市港区で生まれ、小学校時代は「チェーサン(第3)」で過ごす。
チェーサン出身はやんちゃ者が多いと言われるが、やはり高氏もやんちゃだった。
その後、朝中に進学。卒業後は朝高には通わず、そのまま就職する考えだった。働いて家計を助けたかった。卒業間近、トンムが家まで駆けつけてきた。
「博史、一緒に朝高に行こう。3年間頑張って、一緒に卒業しよう」
基本、自分が思ったことは曲げない。しかし、情熱に心を打たれ、朝高進学を決意した。
この選択は正しかったと高氏は振り返る。朝高で、長野県出身の親友とも出会った。毎年冬になると、長野まで泊まりに行くほど。
親友は、現在、中央青商会幹事兼中部ブロック長を務める。もちろん今でも親交はある。
朝高卒業後は、働く道を選んだ。数年後、自立した高氏は、ホームタウンを尾張地域に移す。逞しい人材へと育ち、会社も設立した。
地域の在日の先輩、後輩たちともすぐに打ち解ける。もちろん、日本の仲間とも交流は深い。
そして転機が訪れた。ちょうど、尾張地域青商会を立ち上げる話が出た時だった。
「先輩、一緒に青商会活動をやってくれませんか?どうしても先輩の力が必要です」
熱を込めて嘆願したのは、権勇錫氏だ。現県会長の権氏は、誰よりも高氏を求めた。高氏に迷いはなかった。
「青商会に声をかけてくれた勇錫は、青商会に限って言えば、俺の兄貴みたいなもんだ。勇錫に華を持たせたい。それが俺の使命でもある」
高氏の青商会活動はこのようにして始まった。
一生懸命取り組んだ。その過程で、また新たな出会いがあり、楽しい思い出も増えた。
何をするにしても財政が必要、ないのであれば自分たちでつくるしかない。
一宮七夕まつりでの出店、キムチ販売、自分たちが出来ることは全部出し切った。率先して、キムチを販売した。率先して、キムチを配達した。率先して、ネギマを焼いた。
飛び火のごとく、後輩たちも率先する。
「アツイどころではない、素晴らしい先輩」と文誠孝・前尾張会長は語る。
<やらぬ善よりやる偽善>
これは高氏の座右の銘。
この積極的な姿勢が、財政活動がうまくいっている要因かもしれない。
「俺たちは、賞を貰うためにやっているわけではない。地域活性化のためであり、子どもたちのためであり、何よりも自分を育ててくれた、ウリハッキョのためだ。恩返しだ」
そして、今。「コリアン食堂」という新業態で、恩返しをする。
高氏は、動く。可愛い後輩へ連絡を入れた。南地域青商会会長の李舜麒氏だった。